赤城山・赤城神社には多くの伝説があります。
その中で「神道集」に収められた有名なお話を紹介します。

 まず、「神道集」とは、神仏習合期に全国著名社の縁起を説いた説話集で、文和・延文年間(1352〜61)頃に、京都の安居院で編纂されました。
全10巻、「平家物語」「曽我物語」と共通の詞句を多く持ち、歴史・文学・思想史上重要な資料であり作品です。

 群馬県内の神社も紹介されており、一之宮貫前神社の由来や、赤城神社が貫前神社に一之宮を譲り二之宮となったお話。
三之宮伊香保神社の由来。
また、特に、赤城三所明神、覚満淵の伝説などが載せられています。
赤城神社が群馬県のみならず、広く知られていたことや、当時の赤城大明神への信仰のほどが理解出来ます。

巻第七 三十六 上野国一之宮事

 上野国一之宮の抜鉾大明神は、人皇二十八代安閑天皇の御世・乙卯の年三月に日本にいらっしゃいました。
ある伝えによれば、阿育大王の姫君で倶那羅太子の妹君にあたる御方と云います。
姫君は南天竺狗留吠国に生まれました。
この国は沢山の国々から成りたっていたのです。そこに玉芳大臣という一人の長者がおりました。
5人の娘があり、4人はそれぞれに国王の御后になられ、末娘の好美女だけが嫁がずにおりました。
国内に並ぶもののない美女で、隣国の国王の后にと決まっておりましたが、この話を聞いた狗留吠國の国王が「美しき姫を他国へ出しては成らぬ。」とし、姫を后にしようとしたのです。
姫君の父は、「十六大国の大王の后ならいざ知らず、小国の后ではもの足りぬ」と王の申し出を断わってしまいました。
すると狗留吠王は怒り、長者を殺してしまいました。
再び姫を后に迎えようとするのですが、「親の仇を夫にすることは出来ぬ。」と断わられてしまいます。
姫は、此の国にいると嫌な思いをするのだと、抜提河という河に鉾を立て、その上に敷物を敷いて住んでおりました。
此の河の深さは、三十七丈、広さは八十五里というものでした。
大王は「その河も王の領地である。」と云うと、姫は、それならばとばかりに、鉾を引き抜き、この二人の美女を供として、天の早船に乗り信濃の國と上野の國の堺にある笹岡山に着いたのでした。
この船を山の峯に備えて、船の中に抜提河の水を湛え、劫火(世の終末)の炎を此の水で消す事を誓ったのです。 
 そこに住むうちに、母御前の住む日光山へ通う諏訪大明神と知り合い、夫婦となったのです。
諏訪の下宮の女神が、此れに腹を立てたので、上野国十四郡の内の、笹岡甘楽郡尾崎郷出山成に社を建て、好美女(姫)を住まわせたのです。
供の美女の一人は、船を守るために笹岡山に留まり、荒船明神と成ったのです。
そして、好且、美好二人の末裔が大明神の神官として御社をお守りしております。
抜鉾明神の本地仏は弥勒菩薩で、後に世に出て人々を救ってくださるとされております。

 なおこの上野の國は、赤城大明神が一之宮でしたが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮と成りました。
これは、赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまいました。
思い煩ううちに「狗留吠國の好美女は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう」と「貸して頂けないかと頼んだのです。」すると、好美女は快く承諾してくれたのでした。
赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終えました。
「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を好美女に譲り、当國に末永く留まり頂くために、二位の座についたのです。
好美女は鉾を引き抜いて、脇に挟み抜提河より此の國に飛んで来たので、抜鉾大明神と云い、今なお上野國一之宮として崇め奉られております。

巻第七 四十 「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」
           抑赤城大明神申

 履中天皇の御代、高野辺大将家成という公家がおりました。
ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまいます。
そこで、年月を過ごすうちに、若君一人、姫君三人を儲けました。
若君が成人された折、都に上がり母方祖父と共に、帝にお目通りする事が叶い仕官を許されたのです。

 三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたのですが、母君が38歳の春に亡くなってしまいます。
姫たちは、それぞれ十一歳、九歳、七歳でした。
父家成は、その年の秋に世間の習慣に従い、後妻を迎えます。

 ある晩、継母は弟である命知らずの荒くれ者、更科次郎兼光を呼び、「前妻の姫君たちは、何れも楊貴妃や李夫人のように美しい。あなたに嫁がせようとしたが、田舎者の卑しい男と嫌っている。最愛の弟を馬鹿にされ、この恨みをはらさねば」と、弟をそそのかしたのです。

 更科次郎兼光は、赤城山で7日間の巻狩をするとふれを出し、多くの人を集めました。
そして、大室太郎・淵名次郎を捕え、黒檜嶽の東の嶽・大滝の上、藤井の谷で切り殺してしまいます。
その晩、淵名の宿に押し寄せ、乳母、淵名の女房と淵名姫を捕え、利根川の倍屋淵に沈め、殺してしまいました。












 その後、大室の宿に押し寄せたのですが、大室の女房は、取るものも取りあえず姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げたのです。
赤城の御前は、大室の女房と共に、山に入ったものの道に迷ってしまいます。
大室太郎の宿に押し寄せた族は、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺したのでした。
一方、群馬郡有馬の郷、伊香保大夫の宿に押し寄せ、伊香保の姫君を殺すと聞きつけた伊香保大夫は、子供9人・婿3人を大将とし、利根・吾妻両河の合流箇所から、見屋椙の渡りに至るまで、13カ所の城郭を構えて待ち受けていたのでした。そのため、河から西へは近寄れず、伊香保の姫君は無事でした。
淵名の姫君、神無月の初めに十六年の命を落とされてしまいました。
 山へ逃げ入った大室の女房は、男の従者も連れずに、夫の切り殺された黒檜の嶽を尋ね、岩の間を伝わり石の細道を登りつづけました。峰に上り、呼べど叫べど、答えはなし。谷に下りて、赤城の姫君と共にさ迷いました。
「大室殿、どうか昔の声を今一度お聞かせください。」と悲しく叫ぶも、聞こえるのはこだまのみ。大室の女房につづき、姫君もか弱き声にてつづけた。「あなたに、この様な不幸に会わせてしまい、悲しい限りです。山の護法神・木々の神々よ、私たちの命をお召しください。」と。
 すると、大瀧の上、横枕の藤井という所で、美しい一人の女性が、谷の方角よりやって来ました。
「驚くことはありません。あなた方に会いに参りました。」と、懐より菓子を取り出し二人に勧めました。
口に含むと、その味は、今までに食べた事のない味わいでした。これで、疲れも癒されたのです。
山に逃げ入ってから、5〜6日が過ぎ大室の女房は亡くなってしまいます。
41歳、墓に葬ることも出来ませんでした。

 姫君は、屍に「どうか私もお連れください。」と添え伏して泣いておりました。
そこへ、赤城の沼の龍神が現れました。
その姿は美しい女性でした。
「この世は、命はかなく夢・幻のようであります。
竜宮城という、長生きの素晴らしい処へと姫君を案内します。」と姫君をお連れになりました。

 姫君は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となったのです。
大室太郎夫婦も、従神の王子の宮となりました。
 その後、継母の更科と次郎とは、すべて予定通り事を終え、月日を送っていたのです。
都では、大将は上野の國の国司に赴任することになっておりました。
国中の数千騎の軍勢で迎えに赴いたのでした。
駿河の國、洋津で落ち合います。
その夜、国での様子が詳しく伝えられ、国司は大変驚かれました。
その後は、何事も話さず、ふさぎ込んでしまいました。
夜が明け「三人の姫が亡くなったのならば、もう、どうしようもないが、姫等の死んだ場所へ向かおう」と決め、国元へ下ったのでした。
その日は朝から、迎えの人も、送る人も塞ぎがちで、袖は涙にぬれ心は闇に迷う有り様でした。
その後、深栖の城に到着し、広縁に伏して「淵名姫は何処に、赤城姫は、おられるか、私を残し三人の子は、どこにいったのか。
知らぬ山道に、赤城の姫君は迷い、獣の餌食になったかも知れぬ。
行って見ても辛かろう。」と。

 淵名姫が、倍屋淵に沈められたという倍屋淵に、旅装束のまま向かい河岸に下り立ちました。
「淵名姫は居らぬか、私だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫ぶ。
すると、波の中から姫君が、父と別れた時のいでたちで淵名の女房と手を取って現れました。
姫は「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。
しかし、亡くなられた母が、日に一度、天上界より下り、赤城山とこの淵に通ってくださいます。
神仏のお導きによって、自在に空を飛べるようになりました。
また、御法を説いていただき、前世の罪や穢れも消えて、赤城御前も私も共に、神となり現れ、この世のすべての人々を導くことになりました。
ありがたい説法聞き、功徳を得て菩提薩?と名付けられました。
「必ず父上もお導きいたします。」と云うと、赤城山の上より紫雲が倍屋淵を覆い、美しい音楽が奏でられてまいりました。
姫君が父上に別れを告げ、多くの仏様に交じり、その雲に入って行きました。
国司はこれをご覧になって「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまいました。
すると、紫雲が再び戻り、倍屋淵を覆い隠してしまいました。

 群馬郡の地頭、伊香保大夫は河の西、七郡のうち足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせました。
この羊大夫とは、午の時に上野国の多胡の荘を出て都に上がれば、羊の時には用向き終え、申の時には国元に帰る。
それで、羊大夫と云われております。
申の中半に上野国群馬郡有馬郷を立ち、日没に三条室町に到着しました。
大将殿の嫡子、左少将殿は中納言の職にありました。
二人の姉の死、父親の大将の自害の知らせに驚き、取る物も取り敢えず、その夜の丑の刻中半に、三条室町の館を出発し、東国へ下ったのでした。

 急な事であったので、主従七騎だけでの出立でした。
帝は此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われました。
帝に知らせずに出発したため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、東海・東山道諸国の軍兵は、高野辺中納言が、東国へ下る道中を護衛するようにと命じたのでした。
中納言より先に走り、ふれを知らせ廻りました。
愛越河から三日の道のりを先行し、国々の宿場を走り下ったのです。
中納言が都を出る時は七騎でしたが、美濃の国青墓宿に到着した時は、その数、一千騎になっておりました。
参河国八橋に到着した時には、三千騎余りに。
駿河の国神原宿に着いた時には、一万騎余りに。
足柄山を越え武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなったのです。
帝は中納言を新たな国司に命じたのでした。
上野の国国司の下行を知った、更科次郎と継母の女房は、信濃へ逃げようとしたが、伊香保大夫は碓氷と無二の峯に関を設け、周りを固め守っていたので、逃げ出すことも出来なかったのです。

 国司の中納言は、深栖の御所に入るや、兵に命じ、更科次郎父子三人を捕え、庭先に引きたて子細を問いただしたのでした。
その後、子供二人は、赤城山黒檜岳東の大瀧の上、横枕、藤井の谷で切り殺し、首を古木の枝に懸け、淵名次郎家兼・大室太郎兼保、二人の後生の修羅の身代わりとして手向けました。
更科次郎を戒めようと倍屋淵に引き連れ、船より下ろしては挙げ七十五度も挙げ沈めし責めたてた。
命知らずの荒くれ者も、大声を挙げ、首を落とせと叫ぶ有り様。
国司はこれを聞き入れ、「淵名の姫・淵名の女房もさぞ悲しき思いをした事だろう。更科よ、我を恨むこと無かれ。」と首に石を付けて淵底に沈めました。
「生死は報い有りと云うは誠なり。継母の女房も同じ淵の底に沈めようと思ったが、父が思いを寄せ、妹の姫もいることだから、無情なことも出来まい」と、国堺より信濃の国に追いやったのでした。
信濃の人々も皆、継母を爪弾きにし、疎まぬ人はおりませんでした。
継母の女房は、泣く泣く更科の父の宿に行きました。
親子の仲であれば、疎みながらも面倒を見ておりました。

 信濃の国の国司は、高季階大納言高季といって、上野の國の国司とは大変親しい間柄でした。
「中納言は不思議な事をする。父・姉妹の仇の命を助け、わが信濃の国へ追い払うとは理解できぬ。また、このような極悪人を養う親も鬼である。」と夫婦共、殺してしまいました。
しかし、女房は何処ともなく消えてしまい、その後、甥の更科十郎家秀を頼って現れたのです。
「祖父母を始め、一門は一体何故に破滅させられたのか。」
「お前のためだ。」と、編駄という物に乗せ、母子二人を更科の山奥の宇津尾山に捨ててしまいます。
おりしも、その夜、夕立が起こり、母子ともに雷に打たれ殺されてしまいました。
これより、この宇津尾山は、彼が伯母を捨てた事により、伯母捨山と云うようになったのです。

 上野の國の国司は、父と妹が亡くなった跡を、崇めて神社を建てました。
淵名明神と云います。

 次に、赤城の沼に行き、赤城御前に会うために山に登ります。
黒檜山の西麓の大沼の岸に下りて、祭祀を斎行します。
すると大沼の東岸、障子返しという山の下より、鴨が向かって来ました。
その左右の翼の上には、煌びやかな御輿がありました。
妹の淵名姫と赤城御前が、一基の御輿に乗り、その後ろには、淵名の女房と大室の女房が、御輿の左右には、淵名次郎と大室太郎が械(とくさ)色の装束に透額の冠を着け、腰には太刀を帯び、轅を持って立っておりました。
国司は涙に咽び、二人の姫君も兄御前の袂に飛び込んで、「私たちは、この山の神となって神通の徳を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を得て、現生の人々を導く身となります。
兄上もまた、私たちと同じように神とお成りください。母御前が天より下りて来られます。」と語り涙を流せば、国司もまた声を上げて泣きました。
そこへ、母御前が紫の雲に乗って三人の子供たちの処へ下りて参りました。
母は、天上界の不退の法を説いて、「皆嘆く事はありません。何事も前世からのさだめです。今は、この世の人々の幸福を願いなさい。」と言って天に上がって行きました。
 二人の姫も帰り、鴨に「どうか、この湖に留まり、神様の御威徳を現し、後の世の人をお導きください。」と懇願したのです。
するとその鴨は国司の願いを聞き、大沼に留まり島となったのです。
これが小鳥ヶ島です。

 その後、国司は大沼を出て、小沼の岸を歩くと父の大将が現れ「子供たちの行く末を見守るために、ここに留まっている。」と語り続けて泣いておりました。
国司も涙の袖を絞り、共に泣いていたのです。
 そこで、ここに留まり、数千人の大工たちを集めました。
大沼と小沼の畔に、神社を建て、神々をお祀りしたのです。
これが、大沼の畔に建つ赤城神社と小沼宮です。
その後、小沼宮から流れ出る沢を下ろうとしました。しかし、尚も名残惜しく、この宮沢に三日間留まったのです。

 赤城山を下り、国司は群馬郡の地頭、有馬の伊香保の大夫の宿に到着します。
妹の伊香保姫は、急いで国司の元に走り寄り、兄の膝に額を付けると、そのまま気を失ってしまいます。
国司も共に気を失い、伊香保大夫の女房が慌てて近寄り、左右に呼び動かせば、国司が目を覚まし仰いました。
「今は、私たち二人だけになってしまいました。私は都に戻るので、この国の国司職を姫に差し上げましょう。伊香保大夫を後身として、すべての政治を正して、この国を平和に治めなさい。」
伊香保大夫と女房も「この姫君のお世話は、十分にいたします。他でもない、妻の弟の高光中将殿を婿に取り、国司職は伊香保姫と共に行いましょう。」

 国司は都に戻り、その後、伊香保大夫は国司の後見、今は代理職を務めております。
有馬は領地が狭いので、群馬郡内の自在丸という処に家を建てて住んだのです。
今の総社という神社の建っている所が伊香保姫の住んでいた所です。


巻第八 四十三「上野國赤城三所明神内覚満大菩薩事」
抑此の明神は、人皇第二十代允恭天皇の御世、比叡山の西坂本に二人兄弟の僧がおりました。
兄は近江の堅者覚円、弟は美濃の法印覚満と云う。
当時、上皇と天皇の争いが起り、世の中が大変乱れておりました。
そのため、兄弟は御堂にこもり、千部の法華経を讀誦しておりました。
上皇に味方した父は討ち殺され、今は母だけが残っております。
その父は、三條の藤左衛門の尉國満と云います。

 天皇は大いに怒り、上皇に味方した兵を、七日間に百六十人余り、死罪にしたのです。
國満も一方の大将でありましたので、首を刎ねられてしまいました。
名の知れた大物たちや、多くの無名の兵士が命を落としました。
京の嘆き悲しみや騒ぎは、大変なものでした。

 此の兄弟、覚円・覚満の二人とも召し取られ投獄されてしまいます。
母の嘆きは、例えようがありません。
母は牢の戸を叩いて、大声で叫び苛立ち、子供たちも牢の中で声を合わせ叫びつづけました。
見る人聞く人、涙で袖を濡らさぬ者はおりませんでした。
 七日の後、内裏より検非違使に三條河原で処刑せよとの命が下り、兄弟二人は三條河原に引き立てられました。
彼らは宿願の空しさを嘆き、母は二人の子供との別れを悲しんだのです。
二人の僧は打ち首の座に着き、最後に十回の念仏を唱えれば、母は二人の子供の間に走り寄り、「まず、私の首を切って下さい。だれも皆、子供や孫がおります。朝敵として処刑された父親は仕方ありませんが、我が子と共に在ればこそ生きて行けるものを、この子たちを失ったらどうしたらよいのでしょう。私の首を先にお召ください。」左の袖を兄の覚円の首にかけ、右の袖を弟覚満の首にかけ、「どれ程の命か分かりませんが、惜しくもありません。」と懇願したのです。
 二人の子供はこの姿を見て、「母上は、早くお帰りください。父上は冥途におられます。
母上はこの世に留まり、一門の人も多く居りますので、皆がお助けくださるでしょう。
冥途の父には、私たちの他に仕える者はおりません。」と、つづけたのでした。
この様子を見た人々からは、すすり泣く声が起りました。
母が叫ぶ声、子供が流す涙、母子の愛情の深さに、皆、涙したのでした。
時が来る。すると、比叡山の峰の上より、紫色の二群の雲が出て、一群の雲は処刑場を覆い、一群の雲は内裏の上を覆ったのです。
内裏では公家や殿上人たちが座列し協議中でした。
「法師の首を、否応なしに切るなど前代未聞である。まして、法華経を読み修行する人である。何れも学僧で父親には従わず、合戦に臨んだわけでもない。」と話すうちに、紫雲の中から結ばれた文が落ちてきました。
帝が不思議に思い見ると、「一乗妙典讀誦は、常に三宝の貴び、聴聞隋喜の功徳は梵天、帝釈の収めるものである。母子の永別の悲しみは堅牢地神も此れを嘆き、五体不全の嘆きは切る人も、切られる人も、仏道に近づく事が出来ない。人の人たるは、此れに目をむけ、政の政たるは此れを哀れむ事である。故に、邪見の窓を閉じ慈悲の床にあれ。」とありました。
それを見て帝は大変驚き、二人の僧を呼び戻し「今より後、千部讀誦を援助しよう」と近江の國、志賀郡を讀誦時の食として、本の西坂本の寺に所領とし寄進しました。
兄弟二人の僧は大いに喜び法華堂を建立しました。
この堂の供養に千部の御経を讀誦したのです。また、ここを讀誦院と名付けました。

 一人の老母を養う程に、月日は巡り母も世を去ったので、二人の僧は「今はこの世に思い残す事なし。」と、世の名や利を捨て、志賀郡をお上にお返えしし、兄弟揃って諸国修行の旅に出たのです。
 そうこう旅するうちに、四国伊予の國の三嶋郡で、兄の覚円は最後の仏の教えを説き、この世を去ってしまいました。弟の覚満は兄の遺骨を頸にかけ、西阪本の法華堂に帰り、父母の墓に並べて埋葬しました。
その後、覚満は近江の國の鎮守、兵主明神に七日間山籠して「この世に生あるうちに、弥勒菩薩の出世にお会い出来るような御利益をお授けください。」と法華経を讀誦したのです。
七日目の暁に、覚満が誠の心を持って熱心に経を讀誦する姿に感動されてお告げを下さいました。
「東山道の半ばに、上野國の勢多郡の赤城の沼岸で法華経を讀誦すれば、必ず御利益に巡り会えるでしょう。」

 お告げに従い、赤城の大沼東岸、黒檜岳の西麓に着き、法花華経の讀誦に専念すると、小鳥ヶ島の方から美しい女性が、二人の侍女に沢山の果物を持たせて現れました。
御経を聴聞して、果物を美濃の法印覚満の前に置きました。
それは桃で、味は甘く、大変美しい色形でした。
その女性が語るには、「御経を聴聞し、大変感動いたしました。どうかひきつづき、お聞かせください。」と。

一人の侍女が小鳥ヶ島の中に帰され、暫くして一人の童子が説法の準備にやって参りました。
法座の儀式は申すまでもなく、その設えも云い尽くしがたい程豪華でした。
法印は禮盤に上がり、本より内外の経典に詳しい学僧でしたので、序に始まる二十八品の釈文は、大変、尊く有り難いものでした。

 上野國の山の神々は申すまでもなく、他國隣國の山の神々も集まり聴聞されたのです。
七日七夜の法会でしたが、五日目に更科の継母も、山神の眷属(使い)となって、更科の山の神々に列なって聴聞のために集まったのです。
小沼の龍神というのは、更科の女房の昔の夫、高野邊大将ですので、縁りを戻そうと小沼の畔にやって来たのです。
 大沼の赤城御前は「心憂える人よ。見るのも惜しい。」と小沼と大沼の間に、俄に小山を創り、姿を隠してしまいました。
日本記には「屏風山」と名付け、「隔て山」とあります。
これは、この山のことです。
高野邊の大将も怒り追い返したので、泣く泣く更科へ帰らざるを得ませんでした。その姿は、たいそう哀れなものでした。
七日間の法会も終わり、やおよろずの山の神々は、思い思いに本の山に帰られました。赤
城御前は大変喜ばれ、大沼に留まられております。
覚満は覚満大菩薩として、赤城山の頂に祀られています。
 赤城山三所明神とは、
大沼 赤城御前       赤城明神     本地仏は千手観音
小沼 御父高野邊大将殿 小沼明神     本地仏は虚空蔵菩薩
山頂 美濃法印覚満    覚満大菩薩    本地仏は地蔵菩薩
 であります。

 明治に至るまで、
千手観音は  大沼・赤城神社に、
虚空蔵菩薩は 小沼・小沼宮(虚空蔵堂)に、
地蔵菩薩は  地蔵岳(赤城山)地蔵堂に祀られておりました。
虚空蔵堂・地蔵堂は、残念ながら幕末の廃仏毀釈運動により焼失してしまいました。
 小沼宮(豊受神社)は明治22年に赤城神社(大沼)に合祀されています。

 諸仏菩薩の寂光の都を出て、分段同居の塵に交る 悪世の衆世を導かん為に、苦楽の二事を身に受けて、衆生利益の先達と成り給へり。
故に覚満大菩薩の御誓には、我が山に眼を懸けん輩は、此の歌を詠せば、我が心、其の所に影向かして、萬事の所願を満ち足らせん。
 
「ちはやぶる 神風たえぬ山なれば みのりの露は 玉と成りけり」
 
心有らん人々 誰かは此れを 信仰せさらんや
此の山に向かわん人々は 誰か此の歌を眞實に讀まさらん云々。
  

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